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【NO.28】Harley-Davidsonの話その2
Harley-Davidson(ハーレーダビッドソン)の歴史について、コラムにまとめてみました。全11回。
第1回 ハーレーダビッドソンの創始者(2008.6.29)
アメリカのミシガン湖の西岸の街、ミルウォーキーで1903年にウィリアム・S・ハーレーが設計し
アーサー・ダビッドソンが鋳型を作りウォルター・ダビッドソンが組み立てを担当して誕生した。
自転車に似たフレームに409ccの単気筒のエンジンを積んでいた。
3人の創造主の名前を取って、ハーレーダビットソンと名付けられた。
その後、1906年には、ボアを拡げ、575ccにアップした
モデル(のちのサイレント・グレー・フェロー)を発売し
50台製造された。この年が、のちのちのハーレー発展の礎となる。
1906年には、ダビッドソン兄弟の長男、ウィリアム・A・ダビッドソンがハーレー社に参加する。
1907年に、サイレント・グレー・フェローの生産台数が
150台に達した時点で、株式会社を設立した。
第2回 AMF傘下(2008.7.6)
1960年代のアメリカ経済界では、企業買収が盛んに行われた。
当時のハーレーダビッドソン社は、高い収益性を維持しており
多くの企業から企業買収の話を受けていた。
その中でも、鉄道事業をおこなっていたバンガープンタ社は企業買収に熱心だった。
社長であったウィリアム・H・ダビッドソンは、
ハーレーダビッドソンを本当の意味で理解していない企業に
会社を売却したくなかったため
買収攻勢に対抗するため1968年に、AMFと合併交渉を行った。
AMF(アメリカン・マシン・アンド・ファウンダリー・カンパニー)
1969年、正式にAMF傘下の企業になった。
1974年には、ペンシルバニア州のヨークに新しい組み立て工場を完成させた。
AMFが設備投資を回収するために、生産台数を増やす事に
熱中するあまり、品質低下を招き、ユーザー離れが始まった。
そして、1980年、AMFはハーレーダビットドソンを手放す決断をした。
第3回 AMFからの買戻し(2008.7.13)
ハーレー社をAMFから買い戻す「バイバック」は
ハーレー社のボーン・ビールズを含む13人の役員によって計画され実行された。
買取価格は、推定7500万ドル(当時のレートで約187億5千万)で
1981年にハーレーダビッドソンの買い戻しが始まった。
当時、日本車の輸入台数が増えていた事などもあり
ハーレーダビッドソンの市場シェアは史上最低を記録していた。
そんな中、1984年に、その後の世界的なハーレー人気を決定づける
エボリューションエンジン搭載のモデルを発売した。
しかしながら、1985年には資金繰りに苦しみ、資金獲得のために
1986年にアメリカ証券取引所に株式上場を果たした。
1987年には、世界の経済の最前線であるニューヨーク証券市場に株式を移行した。
第4回 ツインカム96エンジン (2008.7.21)
1999年にデビューしたツインカム88エンジンを8年目に使用変更したのが、ツインカム96エンジン。
大幅な仕様変更は、排気量。
従来の88キュービックインチ(1450cc)から96キュービックインチ(1584cc)にアップしている。
エンジン各部の改良が進められ、カムシャフトの軽量化やピストン、コンロッドが軽量化された。
慣性重量を低減することで、振動の低減と加速性能の向上が図られた。
また、大排気量化に伴い、オイプポンプも強化され
すべてのモデルが、フューエルインジェクションを装備することになった。
第5回 V-ROD(2008.7.27)
空冷Vツインエンジンの伝統と歴史を作ってきたハーレーダビッドソンは
2001年に衝撃的なモデルを世の中に送り出した。
VRSCA V-ROD。量産車のハーレーダビッドソン初となる
水冷の60度Vツインエンジンを搭載している。
このエンジンには、「レボリューション」というニックネームが付けられた。
排気量は、1130ccで、ヘッドはDOHCの4バルブエンジン。
V-ROD用に新設計された、ハイドロフォームド・フレームは
水の圧力を使って製作するフレーム。
歴史としては、1994年に、量産車では無いが
最初の水冷エンジン搭載車として、レースマシンのVR1000を制作した。
VR1000は、VRSCAの誕生に大きく貢献した。
第6回 モデルK(2008.8.5)
スポーツスターの原点となった、モデルKは
改良したサイドバルブエンジンを搭載して1952年に登場した。
750ccで30馬力と、最高時速130km/hをマークした。
そして、フットクラッチ/ハンドシフトの変速方式であった
ハーレーの中で、初めてハンドクラッチ/フットシフトを採用している。
1957年のXLスポーツスターは、モデルKのサイドバルブエンジンを
OHVエンジンに変更して、排気量を883ccとした。
シリンダー、シリンダーヘッドともに鉄で作られていたが
別対化したロッカーボックスをヘッドの上に載せて冷却効率を向上させている。
このエンジンは、後にショベルヘッドのニックネームで呼ばれるようになった。
1958年から、タンクが小型になり、今のスポーツスターのルックスになった。
第7回 電子制御技術の発展 (2008.8.10)
ハーレーダビッドソンは、ここ数十年は最新の電子制御技術に熱心に取り組んでいる。
最初に改革が行われたのは、ウィンカーを制御するTSM(ターンシグナルモジュール)です。
1990年代からスピードメーターのセンサーが速度や距離数を感知してて、
自動的に解除を行うオートキャンセル機能が採用されている。
近年では、車体の傾きを検地するバンクアングルセンサー機能も追加され
転倒時のエンジン停止やや盗難防止用の
TSSM(ターンシグナル/セキュリティモジュール)としても活用されている。
不意の誤動作を防ぎつつ、高度なセキュリティ機能を獲得している。
2008年型からツーリングモデルの一部に採用された電子制御式スロットルは、
ハンドル右側から出たギアとスロットルスリーブ内側に設けられたギアがかみ合い
そこで得た信号を元にインジェクションのバタフライバルブを開閉させる機構であり、
今後のほかのモデルへの展開が予測される。
第8回 Buell(2008.8.17)
ペンシルバニア出身のエリック・ビューエルが、1983年に
ハーレーを退社して設立したのがビュエール・モーターカンパニーである。
「自由自在にマシンを操る楽しさ」を求めて
マシンが小さく、車体が乗り手の一部の様に感じられるマシン作りを目指した。
当時の社員は、エリックも含めてわずか3人であった。
当時からエリックが執着していたのが
マスの集中化、高剛性シャーシ、バネ下重量の軽減の3つである。
これを彼は、「技術のトリノジー」と呼んでいた。
このコンセプトを公道用モデルとして、初めて実現したいのが1986年に完成したRR1000だ。
このマシンはハーレーワークスに認められて
1987年には、ルシファーズハンマーUとしてレースにもデビューした。
そして、1993年に、ハーレーダビッドソンの社長である
ジェフリー・ブルースティンの提案によりハーレーがビューエルに資本参加することになった。
第9回 映画に登場したハーレー(2008.8.23)
ハーレーダビッドソンが初めて映画に登場したのは
1926年、喜劇俳優のビリー・ドゥーリーが
サイレント映画の中でJDを走らせていた。
ハーレーのイメージを決定付けた映画は、いくつかあるが
1953年の「乱暴者(The Wild one)」は、その一本である。
ベトナム反戦運動がピークに達した1969年に「イージー☆ライダー」が効果される。
作品は、1970年代のチョッパーブームに火をつける。
1980年代後半からは、ハーレーは人気を集めるようになり
1990年代に掛けて、映画で使用されるハーレーの数は格段に多くなった。
第10回 ハーレーのカスタム(2008.8.30)
ハーレーダビッドソンのカスタムは、運用モデルが
大量に払い下げされた1940年代から本格化したと言われている。
それ以前の1912年から、パーツ&アクセサリー部門は独立して存在していた。
自分だけの1台を作り上げるために数多くのパーツがメーカー側から用意されている。
さらなるパフォーマンスアップを狙うチューニングブランド
「スクリーミンイーグル・パフォーマンス・パーツ」も存在する。
ハーレーダビッドソンがスタンダードモデルをベースに
コンプリートカスタムとして製作販売しているのが
通称CVO「カスタム・ビークル・オペレーション」である。
その始まりは、1996年にデビューしたFXR−U
+++参考
ハーレー検定 なる検定があります。
こちらのコラムは、下記の書籍を参考にしております。